FRANK
"純粋"
昨日は朝から音楽映画を立て続けに3本観たので、怒涛の更新が続きます。
まずは1本目の「FRANK」。
「それでも世は明ける」や「X-men」に出演しているマイケル・ファスベンダーや、「アバウト・タイム」なんかに出演しているドーナル・グリーソンが出ています。
ヒロイン?には、「ダークナイト」のマギー・ギレンホール。この人を見るといっつもキャリー・フィッシャーを思い出します。
さてさてストーリーに。
ひょんなことからあるバンドに入ることになった才能なしの作曲家・ピアニストのジョン。そのバンドには被り物をしているFrankがいて、彼らのバンドは他に類を見ないような音楽をやっていて、ジョンは売れるようにYouTubeに投稿して有名になっていくものの〜みたいな感じ。
なんといってもフランクの被り物のインパクトがすごい。ずーっと一日中寝るときもシャワー入るときも被ってる。すごいですね。バンドのメンバーですら素顔を見たことがないなんて、ほんとすごいバンドだなって思います。フランクの才能ひとつで繋がっていて、楽しいからこそ一緒にバンドをやっている。そんなところにジョン。
ジョンはフランクの才能を感じ始めて、売れたいと思うようになってしまいます。
才能があっても売れたいと思わない人、才能がなくても売れたいと思う人。見える位置にいる人はわざわざ見たいと思わないし、見えない位置にいる人は見たいと思ってしまう。そんな構図の映画だったのかなあなんて思います。音楽に関して言えば、単純に芸術としての楽しみ方、商業的な利用が議論されがちですが、まさにそんな映画だったのかなあと思います。
被り物をしている理由、音楽をやる理由。考えれば考えるほど面白そうです。
サイダーハウス・ルール(The Sider House Rules)
"居場所"
最近は8月にもかかわらず涼しい日が続きますね。北海道出身の身として、嬉しい限りです。東京に来て4年目と言えど、この暑さにはいつまでたっても慣れることがありません。「郷に入っては郷に従う」とはよく言われますが、僕の体は従わないようです。
はい、そんな今回観た作品は「サイダーハウス・ルール」。孤児として生まれ、孤児院という狭い世界で育った少年が、外の世界に出る。簡単に言えばこんな感じです。主演には、サム・ライミ版「スパイダーマン」のトビー・マグワイア。脇を固めるのはマイケル・ケインになんとシャーリーズ・セロン。監督は「ギルバート・グレイプ」や「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」のラッセ・ハルストレムという人です。大好きな監督さんです。
んー、なんと感想を書いていいかわからなくなるのがこの監督。とりあえず、見えない愛みたいなものをすごく映像から、台詞から、動きから感じさせるのがうまいです。「ギルバート・グレイプ」も「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」もしかり。優しい映像というか、のほほんとした映像というか。そんな雰囲気がたまりません。
しかしこの監督、いいな!って思う点は他にあります。大事なことを気づかせてくれる(くれてそうな気がする)点です。というか心に残る台詞があるんです。僕にとってはの話ですが。
ちなみに今回感じたのはざっとこんな感じ。
・規則は誰のためにあるのか
・男女の違い
・生きてるだけで救い
この映画のタイトルにもある通り、「規則」というものにかなり焦点が当たっています。「人工中絶の禁止」という規則、「サイダーハウス」の規則。誰のためにあって、それは何のためにあるのか。郷に入っては郷に従うとは誰のためにある言葉であり、規則なのか。そんなところに焦点が当たっています。
2点目の男女の違いは飛ばします。
そして最後の点。3人がトラックに乗っているときに、マイケル・ケインが言う台詞。「生きてるだけでいいではないか」のようなニュアンスでした。その台詞、言葉がすごく残ってます。見たらわかります。
はい、考えたことはこんな感じです。
キャストに関しては、マイケル・ケインが最高でした。新バットマンシリーズでの執事役で見せた優しさの溢れ出る感じとは少し違いますが、現実を見ながらも大きな愛で見守っている。最高にかっこよかったです。シャーリーズ・セロンは「マッド・マックス」に出演して強い女性像になってきていると思いますが、この作品ではすごく女性的でよかったです。
主演のトビー・マグワイアは、「スパイダーマン」で有名になったものの、今回の方が作品にあっていてよかったなと思います。
思考を言葉に変える作業の難しさをつくづく感じる今日この頃ですが、ちょっとずつ精進しようと思います。
旅立ちの時(running on empty)
"ひとり立ち"
Running on Empty (1988) Trailer - YouTube
いよいよ大学生活も残り半年。来年からは社会人としてお仕事をすることになるわけですが、最初2年間くらいは実家から通うということでいまいち社会に出る気がしないように思ってます。本当にひとり立ちするのはいつになるのか、そもそもひとり立ちってなんなんだ〜みたいに思ってます。
そんな今回観た作品は"旅立ちの時"。リヴァー・フェニックスが主演の映画です。本当に惜しい人を亡くしました、ってよく言われますが、ほんとにそうだなと思いました。
お話は、FBIに指名手配されている両親と、名前を変えながら両親とともに逃避行している息子のお話。ピアノの才能を見出され、音楽学校への進学を勧められるもののコロコロ名前が変わっていて過去の証明がいっさいないという状況。どうなる!って展開です。
この映画何がいいってやっぱり主演のリヴァー・フェニックス。何も言わない演技がとにかくすごくて、何も言わないのに、いや、何も言わないからこそ伝わってくるものがある。そんな演技ができる俳優さんは多くないと思います。恋に落ちた2人の別れの瞬間なんてのはもうたまりません。あんな恋をしてみたいものです。
17歳の、大人に従うことしかできない無力さ、そこから生まれる悲しさや自分の非力さへの怒りなんてものが伝わってきます。
弟のホアキン・フェニックスさんも最近活躍していますが、あそこまではなかなかいかないなあと観ていて思いました。でもいい俳優さんですよ!"インヒアレント・ヴァイス"、観たいです。
そしてこの映画を観て何を考えたかって、やっぱりひとり立ちについて。日本とアメリカでは子供への対応というか接し方が違うのであれですが、自分はいつひとり立ちするのか、家族を離れ、自分の道を歩み始めるのはいつなのか。なんてことを考えてしまいました。
最後のシーンの親父がとにかくイケメンです。
はい、今回はさくっとこんな感じで終わります。
"スタンド・バイ・ミー"や"マイ・プライベート・アイダホ"だけではないリヴァー・フェニックス。追って観たい俳優さんでした。
ソロモンの偽証
"見えてくるもの、見えなくなるもの"
最近やっと就活が終わりまして、今までの就活を振り返ってみると、すごく無駄が多いと思いつつも、必要な時間だったとも思います。終わったからこそ見える景色があって、当時の悩みなんてほんとにちっぽけだったなって思います。
まあそんなわけで終わってから飲んでしかいないので久しぶりの更新となりました。前置きはさておき、今回観たのは邦画、"ソロモンの偽証"。昨年話題となりました、中学生がある同級生の死の真相を見極めるために、自分たちで裁判を開く〜といったもので、宮部みゆきさんの同名小説が原作です。ちなみに原作は読んでません。
はい、この映画、「前編・事件」と「後編・裁判」の2作あって、なんと早稲田松竹は今日まで一気に上映しておりました。いつもお世話になってます、早稲田松竹。そして向かいの喫茶店・エスペラントにもなかなかお世話になってます。
余談はさておき(エスペラントと松竹はほんとにオススメです)、感想に移ります。
の前に、タイトルについてちょっと考えてみるというか確認しておくと、「ソロモン」と「偽証」。「ソロモン」は賢い人の例え〜で、「偽証」は読んで字のごとく、偽りの証、ここでは偽りの証言です。そんなわけでこの作品のタイトルは「賢い人の偽りの証言」なんです、きっと。
この作品の中でのソロモンは誰なのか。そんな視点もおもしろいです。
この映画は前編のある事件が起きてから、主に藤野涼子ちゃん(主人公)を中心として様々な人の動き、考え、証言を見ながら、後編の裁判にてその証言を検証していく流れです。事件が起きた時の警察や学校の動き、それをかき回す「告発書」の存在、騒ぎを大きくするマスコミ...と、本当にいろんな動きがあります。
これを観ながらどんなことを考えたかって、
・マスコミの操作性
・人の心は読みにくい
・いいように捉える
なんてこと。
でもほんとに大事だったのは、中学生だから成り立つセリフ、そして涙。
大人になりきれない宙ぶらりんの状態だからこその悩み、そんな状態から見る「オトナ」というもの、傷つく・傷つけるということ、感じるもの。年を重ねるごとに見える世界が変わっていくというのはおそらく誰もが体験することだとは思いますが、この作品は、年を重ねることで逆に見えなくなっていくってことを描いているように思います。
例えば自分に息子や娘がいて、彼・彼女が何を考えているのか、きっとわからないでしょうし、自分が中学生のとき、親が自分のことをわかってくれていたかといえば、なかなかないように思います。
不安定な時期の不安定な思考、なんでも吸収してしまう時期にオトナはどういう対応、どういう接し方をすればよいのか。大学生の今でさえわからないのに、これからもっとわからなくなるような気がして、少し悲しい気分になります。
見えるように努力しても、だんだん見えなくなってくるものもある。そんなことを考えた作品でした。
ちなみに中学生の子役(?)の演技は微妙なところ。しかしながら脇を固める俳優陣が素晴らしい。CGは甘いものの、光と影は絶妙。エンディングのテーマはなんとU2。賛否両論ありますが、爽やかに終わるためには必要だったのではないでしょうか。
今何が見えていて、何が見えていないのか。見えなくなったものについて考えるのもなかなかおもしろいかと思いました。
怪盗グルーのミニオン危機一髪(Despicable Me 2)
"タイトルとキャラクター"
就職活動での最初の関門といえばエントリー・シート(以下、ES)。このESっていうのは履歴書みたいなもので、学生時代に頑張ってきたことなどを書くものなんですが、よくOB・OGに添削してもらうことがありました。その際に僕がよく言われた一言って、「君のキャラクターが見えない」、なんです。もしかしてキャラなし!?なんて思った方もいるでしょうが、これが以外と難しいんです。今はもう突破した関門ですが、これがまた小慣れてくると次は「筋が通っているけど、取り繕ってない?」なんて言われてしまうので、やっぱり就活は大変です。
さてさて、今回観た作品は最新作が話題となっているミニオンシリーズの第2弾、"怪盗グルーのミニオン危機一髪"です。あの黄色いちっさくて愛くるしいやつがミニオンです。
ざっと1作目のストーリーを書いておくと、
悪党であるグルーとミニオン、そして孤児の少女3人組がぶつかりながらもいい関係を築いていく〜というものです。本当にざっとしか書いていません。
そして今回のお話はというと、3人の少女と仲睦まじく暮らしていたグルーの元に、悪党を倒す組織から力を貸してくれ〜と依頼が入り、グルー、ミニオン、3人の少女、そして今回登場となるルーシーと力を合わせて悪を倒す、って感じです。
ではなぜ今回のタイトルがキャラクターについてかというと、原題とグルーの関係性が素晴らしいからなんです。そして邦題はやっぱり微妙です。
Despicable (形) 卑しむべき
そう、まさにこのグルーのことなんです。1作目では大人としての愛を、2作目では自分自身の愛について問題を抱えています。ちょっと、いやかなり残念なグルーが成長する物語であって、ミニオンは脇役でしかないんです。この作品ではタイトル通り、グルーにすごく焦点があっていて、グルーの過去のトラウマであったり、心理的な描写が映画に思いっきり出ています。素晴らしく見やすいですし、小さい子でも難なく理解できるはずです。
このグルーに焦点がばっちりあっているので、他のキャラクターは本当に脇役になっていて、余計な時間を使わせない。きっちりと忠実にグルーに焦点が当たっています。
日本での映画のマーケティング方法が残念です。愛されるキャラクターは確かに大事だと思いますし、原題通り訳すと意味がわからない映画になるってこともわかります。でももっといいタイトルなかったのかなあなんてよく思います。"ベイマックス"なんてのは非常に残念な例で、日本ではラストシーンも変わってしまっています。
製作者の意図をもっと汲んでもいいのでは〜なんて大学生ながらに思います。
3作目となる"ミニオン ズ"は脇役にスポットを当てたスピンオフ映画のように感じていますが、非常に気になる愛くるしさをもってます。キャラクターとタイトル。切っても切り離せない関係にある気がします。
ジャージー・ボーイズ(Jersey Boys)
"焦点"
就活もそろそろ終盤、ということで卒業研究の方にも手を出していかないと!な状況にもかかわらず体育祭を控えており、なかなか焦点が定まらない今日この頃です。一つ一つしっかり焦点定めてやっていかなきゃなあと思っています。思っているだけです。
二兎を追うものは〜のように焦点のお話はいろんなところでされますが、映画でも同じことでは?と思います。そんな映画がこちら、"ジャージー・ボーイズ"です。
クリント・イーストウッドが監督を務めた、実在のバンド「フォーシーズンズ」に焦点を当てた作品です。
いやー、現実に限らず焦点を絞るってのは難しいみたいです。クリント・イーストウッドの作品ということで、西部劇のようにフランキー・ヴァリの1人に絞って話が進むのかと思いきや、やっぱりタイトル通りグループに焦点が当たっていて。ところどころ、「あれ、こんなことあったんだ。あれ、出てきてたっけ?」みたいになりました。
人の集団であるグループに焦点を当てることがいかに難しいか、そんなことを感じながら観てました。
もちろん、有名曲が出来上がった背景とともにその曲を実際に楽しめる点ではすごくおもしろい作品でした。キャストもブロードウェイ出身の人を使っていたりと、さすが歌うまいです。ですが、これほんとにクリント・イーストウッドが監督である必要あったかなあと思います。確かに、映画全体の雰囲気とか、少し間延びする部分とか感じる部分はあったものの、もっと他に撮るものがあったのかなあとも思いました。
「ジャージー流」はさすがでした。
フォーシーズンズをもともと知っているとより楽しめる、知らなくても楽しめる。ミュージカル調で観やすいので是非一度観てみてください。
バートン・フィンク(Barton Fink)
"難しい映画はいかにして難しいのか"
Barton Fink (1991) - Original Theatrical Trailer - YouTube
最近は映画だけでなく、文学にも手を伸ばしてみようと思い、書店で一番薄かったカミュの「変身」を買ったのが早2ヶ月前。進んだページはわずか30ページと、難解な文章に苦戦しています。難解というか、単調。まだ僕には早かったみたいです。
世の中にはこういう「難しいもの」っていっぱいあると思います。「変身」の場合は僕にとっての難しさですが、芸術ってすごく難しいものだと思います。比喩がすごく難解だったり、そこに皮肉や批判が混じっていたり。今回の映画"バートン・フィンク"もその類なような気がします。
物語は、劇作家がB級映画の脚本にチャレンジするものの、なかなかうまくいかず〜みたいなお話。監督はコーエン兄弟。個人的にあの暗い感じというか、ずる賢いというか、そんなちょっとダークなところが好きです。
"バートン・フィンク"でもそのコーエン節みたいなものが存分に楽しめて、何がいいかってとにかく気持ち悪い笑
剥がれ落ちる壁紙、廊下に並ぶ靴、そして受付のスティーブ・ブシェミ!たまらなく陰湿。バートンの内面を表していて、幻覚なのか現実なのか、うまく区別がつけられません。
そう、この作品は何が難しいかって、比喩や皮肉が多いのももちろんそうなんですが、どれが現実なのか考えるとわからなくなってくるというところ。夢オチなんて映画は多いように思いますが、今回はそれがわからない。夢といえば夢、現実といえば現実。その境界をわからないように撮るコーエン兄弟。なかなか好きです。
"シャイニング"くらいわかりやすいと、ホラーとして楽しめるものの、今回は自分がそこにいて実際にわからなくなってくる感覚があります。
観た日に感想を書くってのを目標にやっているブログではありますが、今回は相当時間がかかってしまいました。1回だけではなかなかわからない部分もあり、それこそすごく難しかったです。
ジョン・グッドマンの笑顔が素敵な映画でした。
たまにはこういうダークな雰囲気を覗いてみるのもいいかもしれません。